Rion Hiragi/Resercher/Storyteller

〜 No.152 3.11で被災し「今」を生きるようになりました〜

皆さまこんにちは。

 

東日本大震災からもう6年目の3月です。

今日は、当時の事を少し書きたいと思います。

 

震災当時、私は宮城県に住んでいました。

 

当時は、一週間前に電車通勤の仙台市の職場から

車通勤の外資系の職場に転職したばかりで

そのおかげで何とか職場を出る事ができ

信号が消え、でこぼこになった道を走って

保育園に娘を迎えに行きました。

 

国道沿いのお店はガラスが粉々に割れていて

家に着けば電気だけでなくガスも水道もストップ。

 

懐中電灯くらいしか備えていなかった私は娘を連れて

家族のように仲良くしていたお隣さんのうちに

「すみません!一緒にいてもいいですか?」

と毛布を抱えて転がり込みました。

 

情報がほとんど入ってこない中

ラジオから聞こえて来る海岸沿いの町の状況は

耳を疑いたくなる程、絶望的なものでした。

 

深夜になると上空をヘリコプターがひっきりなしに飛んで

その音と、度重なる強い余震で

初日はほとんど眠れなかったのを覚えています。

 

その頃の私は

「将来は一流の通訳になるか、大企業で出世する」

事だけが、人生の成功の定義だと信じて

がむしゃらに努力していました。

 

英語の勉強はもちろんですが

泣く娘を休日もシッターに預けて

終わらない仕事を片付けに職場に行っていました。

 

「今払っている犠牲は

私と娘が将来幸せになるために『必要な犠牲だ』」

と信じて疑わなかったのです。

 

だから娘が「私と一緒にいたい」と泣いても

娘を12時間も保育園に預けても

仕方ないと思っていました。

 

でも、6年前の311日に

その価値観がひっくり返ったのです。

 

私が住んでいた隣町では

大勢の方が津波で犠牲になりました。

 

ほんの一瞬の判断の違いや偶然のせいで

尊い多くの命が消えてしまったのです。

 

中には、最後まで他の方を助けようとして

殉職された方も大勢います。

 

ある警察官の方は

海沿いを走ろうとする車をすごい剣幕で止めて追い返し

その剣幕に気圧された女性は道を変更して助かりましたが

その警察官の方は最後まで職務を全うし

亡くなってしまったそうです。

 

震災から何週間か後にこの新聞記事を読んで

私は一人で泣きました。

 

どうしてこんな立派な人が

死ななければならないのか。

 

どうして世界は、こんなに理不尽なのかと。

 

こんな話が至るところにありました。

 

被災する前の私は

未来に怯えて

今を生きる事をおろそかにしていたのです。

 

でもこの日から

見えない未来のために

必要以上に今を犠牲にして何の意味があるのかと

色々な事がバカらしく思えました。

 

私が生きる今日は

生きられなかった人がどうしても生きたかった今日で

私はその今日を大切に生きなければいけない。

 

だから、私は恐れからでなく

夢や希望の延長線にある未来を選択して行こう

と決めました。

 

常に人生の終わりを意識する事は

逆に「今、この瞬間」を最大限に輝かせてくれます。

 

私が「やってみなよ」とアドバイスしても

大抵の人は尻込みします。

 

でも

 

確実な明日など誰にも約束されていないと実感できたら

誰でも本当に生きたい今日を

生きられるようになるのではないでしょうか。

 

恐れるべきは未来でなく

あなた自身の心なのかもしれません。

 

そして今を生きていると実感できるのは

とてつもなく、幸せな事なのです。

 

 

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編集後記

 

お知らせ①

『ウートピ』様に私のインタビューが

4回に分けて掲載されています。

 

http://wotopi.jp/archives/52271

 

今回は、マインドフルネスと仏教の考えを応用した

『怒りのコントロール方法』をお話しています。