以前、「嫉妬を交わす達人」というタイトルで
会津松平家初代藩主・かつ二代将軍徳川秀忠のご落胤(隠し子)
である保科正之を紹介しました。
その時の記事はコチラ
先日読了した冲方丁さんの『天地明察』にも
保科正之が登場していたので、改めて調べましたら
前回は見落としていた新たな発見がありました。
まず、正之の功績をざっと振り返りますと
・明暦の大火の復興の際、天守閣の再建ではなく
江戸の復興を最優先させた。その時幕府の溜めていたお金の
ほとんどを、反対を押し切って救済費用に充てた
・明暦の大火で、幕府が米を保管していた蔵に火の手が回りそうになると
「米は取り放題」というおふれを出し、それを聞いた庶民が
火を消して米蔵を守り、ひいてはその米が救護米となった
・敵の侵入をいかに阻むかが最優先されていた当時の街づくりを
根本から替え、両国橋をかけたり、道路の幅を広げたり災害に強い都市に
作り替えた
・将軍などが死んだ後の、追い腹(後追い自殺)を禁じた
・飢饉に備えて米の備蓄をスタート(@会津藩)
・人質として大名の妻子を江戸に住まわせる慣習をやめた
・世界で初めて、掛け金無しの国民年金制度を会津で始めた(@会津藩)
などなど、当時の常識を覆すエピソードが他にもたくさんあるのですが
一言で表すと「武断政治」から「文治政治」へと舵を切る
一大転換を成し遂げた人です。
ここで、です。
自分がもし保科正之で(だとして!)
名君と崇められていたとしたら
この自分が成した数々の功績を
書物などの形で残そうとか
誰かにずっと語り継いでもらいたいと
思いませんか!?
99%の人はそうして欲しいと思いますよ。
ただ、正之はどうしたか。
......全て焼かせたのです。
59才でやっと隠居した折り
家臣に命じて自分が提案した記録文書を全て焼却させました。
なぜか?
江戸幕府が行った様々な改革のほとんどが
全て自分の発案だったと世に知れ渡れば
幕府の求心力が落ち
将軍家綱の権威がかすむからです。
つまり、後世
「自分の功績=将軍家綱の功績」
と解釈してもらえるよう、自分の手柄の記録を消そうとしたのです。
なぜこういう事ができたのかと考えると
正之はその複雑な生い立ちから
「足るを知る」
人物であったからでしょう。
だから自分の大手柄よりも
まずは大義第一と考えたのかもしれません。
正之の場合は
実母(秀忠の浮気相手)と7才までの育ての母親(武田信玄の娘)、
また養子に行った保科家での教育が素晴らしかったので
このような立派な人になったのだと思います。
一方、正之の後妻は本当に嫉妬深い人物で
側室の娘を殺すつもりが、間違って自分の娘を殺してしまうという
トンデモナイ人でした。
同じ人間なのに器というのは本当に人それぞれ。
どうせなら正之のような器になれるよう精進したいものです(^-^)
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編集後記:
先週の土曜日に、受講者様との初・オフ会を開催致しました。
受講者様同士でもお互いにアドバイスして下さったり
貴重な情報を交換できたりと
私もとても楽しい時間を過ごさせて頂きました。
またそのうち企画しようと思います。
8/3〜8/9までお休みを頂きます。お申込み等は随時受け付けておりますが
お返事が遅くなりますのでご了承下さいませ。
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