Rion Hiragi/Resercher/Storyteller

 柊のメルマガ   ~No.76 自分の功績を誰かのために全て消せるか〜

以前、「嫉妬を交わす達人」というタイトルで

会津松平家初代藩主・かつ二代将軍徳川秀忠のご落胤(隠し子)

である保科正之を紹介しました。

 

その時の記事はコチラ

 

先日読了した冲方丁さんの『天地明察』にも

保科正之が登場していたので、改めて調べましたら

前回は見落としていた新たな発見がありました。

 

まず、正之の功績をざっと振り返りますと

 

・明暦の大火の復興の際、天守閣の再建ではなく

 江戸の復興を最優先させた。その時幕府の溜めていたお金の

 ほとんどを、反対を押し切って救済費用に充てた

 

・明暦の大火で、幕府が米を保管していた蔵に火の手が回りそうになると

 「米は取り放題」というおふれを出し、それを聞いた庶民が

 火を消して米蔵を守り、ひいてはその米が救護米となった

 

・敵の侵入をいかに阻むかが最優先されていた当時の街づくりを

 根本から替え、両国橋をかけたり、道路の幅を広げたり災害に強い都市に

 作り替えた

 

・将軍などが死んだ後の、追い腹(後追い自殺)を禁じた

 

・飢饉に備えて米の備蓄をスタート(@会津藩)

 

・人質として大名の妻子を江戸に住まわせる慣習をやめた

 

・世界で初めて、掛け金無しの国民年金制度を会津で始めた(@会津藩)

 

などなど、当時の常識を覆すエピソードが他にもたくさんあるのですが

 

一言で表すと「武断政治」から「文治政治」へと舵を切る

一大転換を成し遂げた人です。

 

ここで、です。

 

自分がもし保科正之で(だとして!)

名君と崇められていたとしたら

この自分が成した数々の功績を

書物などの形で残そうとか

誰かにずっと語り継いでもらいたいと

思いませんか!?

 

99%の人はそうして欲しいと思いますよ。

 

ただ、正之はどうしたか。

 

......全て焼かせたのです。

 

59才でやっと隠居した折り

家臣に命じて自分が提案した記録文書を全て焼却させました。

 

なぜか?

 

江戸幕府が行った様々な改革のほとんどが

全て自分の発案だったと世に知れ渡れば

幕府の求心力が落ち

将軍家綱の権威がかすむからです。

 

つまり、後世

「自分の功績=将軍家綱の功績」

と解釈してもらえるよう、自分の手柄の記録を消そうとしたのです。

 

なぜこういう事ができたのかと考えると

正之はその複雑な生い立ちから

「足るを知る」

人物であったからでしょう。

 

だから自分の大手柄よりも

まずは大義第一と考えたのかもしれません。

 

正之の場合は

実母(秀忠の浮気相手)7才までの育ての母親(武田信玄の娘)

また養子に行った保科家での教育が素晴らしかったので

このような立派な人になったのだと思います。

 

一方、正之の後妻は本当に嫉妬深い人物で

側室の娘を殺すつもりが、間違って自分の娘を殺してしまうという

トンデモナイ人でした。

 

同じ人間なのに器というのは本当に人それぞれ。

どうせなら正之のような器になれるよう精進したいものです(^-^)

 

 

 

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編集後記:

 

先週の土曜日に、受講者様との初・オフ会を開催致しました。

受講者様同士でもお互いにアドバイスして下さったり

貴重な情報を交換できたりと

私もとても楽しい時間を過ごさせて頂きました。

またそのうち企画しようと思います。

 

8/38/9までお休みを頂きます。お申込み等は随時受け付けておりますが

お返事が遅くなりますのでご了承下さいませ。