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~No. 57 「私は不幸じゃない」~
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「被害者意識を持つ」のは
感情と向き合う上で大きな枷となります。
ただ、それを持つ権利がある人がいるとすれば
犯罪や災害で、肉親を失った方達でしょう。
「私は不幸だ」と認めるのに
必要な条件は、あるのでしょうか。
12日の朝日新聞に、東日本大震災の追悼式で
宮城県代表として追悼の言葉を述べた女性が掲載されています。
まだお読みになっていない方、
こちらに転記しますので、必ず読んで下さい。
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菅原彩加さん(19)は、津波で母と祖母、曾祖母を奪われました。
(ここから遺族代表の言葉として一部抜粋)
"あの日、中学の卒業式が終わり家に帰ると
大きな地震が起き
地鳴りのような音とともに
津波が一瞬にして私達家族5人をのみ込みました。
しばらく流された後
私はがれきの山の上に流れ着きました。
その時、足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ
かき分けてみると
釘や木が刺さり、足は折れ変わり果てた母の姿がありました。
右足が挟まって抜けず、がれきをよけようと頑張りましたが
私一人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。
母のことを助けたいけれど
ここに居たら私も流されて死んでしまう。
「行かないで」という母に私は
「ありがとう、大好きだよ」と伝え
近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました。"
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菅原さんは、高校入学後60回近く体験を語って来たそうです。
祖父秀幸さんが、ふびんに思って声をかけると
彩加さんは
「自分は不幸じゃない」
と泣いて抗議したそうです。
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彩加さんは、追悼のことばを次のように結んでいます。
" 失ったものは、もう戻ってくることはありません。
悲しみが消えることもないと思います。
しかし前向きに頑張って生きて行くことが
亡くなった家族への恩返しだと思い
生きていきたい。"
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彼女には、とてつもなく深い悲しみと
自分だけ生き残ってしまったサバイバーズギルトのような
自責の念がある事と、拝察します。
それでも
彼女の目は
前を見据えていると私は感じるのです。
彼女が
人生で感じる辛さや苦しみをすべて地震のせいにしていたら
遺族代表として
祭壇に向かい合う事はできなかったと思うのです。
春からは
大学で防災学を勉強される彩加さん。
天国のお母様は
ずっと彩加さんを見守ってくださる事でしょう。
そして私達は
彼女から多くを学ばなければなりません。
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編集後記:
私も当時宮城で被災していましたが
そんな大変な状況の中でも
私が見たのは人間の優しさ・美しさでした。
いつか自分が見た事を、まとめられたらいいなと思います。
犠牲者のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
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